ベツレヘムの、ある小さな宿屋。
その隣に建つ馬小屋の中から、優しい子守唄が流れ出していた。
 
澄みきった声に含まれる暖かさは、子供をいともたやすく眠りに誘う。
歌を紡ぐのは、つい先日母となった少女、マリア。
その腕には小さな小さな幼子が抱かれていた。
胸を上下に規則正しく動かし、小さな寝息をたてはじめた我が子に、マリアは優しい笑みを浮かべ、頬にキスを落とした。
そしてそっと飼葉桶に寝かせてやる。
 
じっとその様子を見ていた羊飼いの少女―ステラは、不思議そうに口を開いた。
 
「どうして……ずっと馬小屋にいるの………?」
 
綺麗な宿屋に移ればいいのに、とステラは思う。
 
数日前、ステラと二人の羊飼いは神の使いガブリエルに言われた通り、一際輝く星の下にやって来た。
そこは、お世辞にも綺麗とは言えない馬小屋で、中に入ってみると一組の男女と、生まれたばかりの幼子がいた。
ガブリエルに言われて訪れたことを幼子の両親らしき男女―ヨセフとマリアに説明すると、二人はステラたちを快く迎えてくれた。
 
そして、飼葉桶に眠る子供を見た瞬間。
 
ステラはこの幼子がガブリエルの言った通り、『救い主』となることを確信できた。
なぜかはわからない。
ただ、頭の中で何かがこの子供は救い主だと告げてきた。
他の二人も同じだったらしく、ステラがもう少しこの幼子の、イエスの傍にいたいとここにいることを望むと、少し躊躇ったが、承諾してくれた。
そしてヨセフたちにも承諾をもらい、羊飼い三人は町から少しはなれた所に羊を放し、交代で羊の番をしながらベツレヘムに滞在していた。
 
それから数日が経った。
イエスが生まれた時は客間の空いていなかった宿屋も、今では空きがある。
しかし、ヨセフとマリアは、馬小屋から離れなかった。
 
それがステラには不思議でならなかった。
 
「ねぇ、どうして………?」
 
重ねて尋ねると、マリアは目を細め、眠るイエスを見る。
 
「この子が……嫌がるのです」
「……赤ちゃんが……?」
 
きょとんとするステラに、マリアは小さく頷いた。苦笑を浮かべる。
 
「えぇ。私もヨセフさまも、一度はご主人のご好意で宿の方に移ろうとしたのです。ですが、ここを離れようとしたら、イエスが泣き始めてしまって………」
 
まるで、ここを離れることを全身で拒否するかのようだったイエスに、マリアもヨセフも、馬小屋に留まることに決めた。
その時のことを思い返し、マリアはふっと微笑む。
 
「もしかしたら、この子はまだ誰かを待っているのかもしれませんわね………」
「待ってる……?」
「はい、ステラさんたちが来て下さったように、まだこの子に会いに来てくださる方がいらっしゃるのかもしれませんわ」
 
そう言って、マリアはステラに優しく微笑みかけた。
その微笑みに、ステラは口元をほんのりと緩ませる。
ふいに、マリアはあら、と声を上げた。
 
「そういえば……ステラさん、ヨセフさまはどちらにいらっしゃるか、ご存知ですか?」
「……え……わからない………」
「そうですか……お話したいことがありましたのに………」
 
ふぅと息をつくマリアに、ステラは少し考えるとおもむろに立ち上がった。
 
「わたし、探してくる」
「え?」
「ヨセフさん、わたしが探しに行く」
「まぁ、いんですよ、ステラさん。そんなに急ぐことではありませんし………」
 
マリアが止めようとしたが、ステラは小さく首を振ると、そのまま馬小屋を出る。
 
「すぐ、帰って来るから」
 
そう言い置き、ステラはヨセフを探しに出た。
 
 
 
馬小屋を出て、まず最初に向かったのは隣の宿屋。
中を覗き込むと、主人が顔を出した。
 
「どうしたんだい、羊飼いのお嬢ちゃん」
「ここに、ヨセフさんはいる………?」
「ヨセフさんかい?いないよ、町中に出てるんじゃないかね」
「……そう、ありがとう」
 
ステラは珍しく微笑みを浮かべた。
この、羊飼いの自分に差別せず親切にしてくれる主人を、ステラは少し気に入っていた。
主人に手を振り、ステラは町に向かって足を踏み出す。
 
「おい、ステラ」
「………え?」
 
背後から響いた声に振りかえったステラの目に入ってきたのは、同じ羊飼い仲間のアウルの姿だった。
 
「お前どこに行くんだよ」
「………自分こそ、何やってるの?」
 
ステラはすかさず聞き返した。
その目線の先には、アウルの両手に下げられた水桶がある。
アウルはうっと詰まり、
 
「こ、これは………」
「アウルはわたしを手伝ってくれてるの」
 
ふいに、アウルの後ろから可愛らしい少女が顔を出した。にこりとステラに笑いかける。
ステラは目を瞬かせた。
 
「あなた……宿屋の………娘さん?」
 
ステラが首を傾げると、少女―宿屋の娘は、こくりと頷いた。
 
「そうだよ」
「……どうして、アウルと一緒なの?」
「わたしの仕事、アウルにやってもらっちゃってるの」
 
えへへと少女は笑う。
ステラはアウルに目を向けた。そのまま黙って見つめる。
 
「………なんだよ」
 
穴が空くかと思うほどの真っ直ぐな視線に、アウルは眉を寄せた。
 
「何か文句、あるわけ?」
「………なんで?」
「は?」
「なんで、いつもスティングが手伝ってくれって言っても手伝わないのに、今は手伝ってるの?」
 
ねぇ、どうして?
 
何も考えずに、ステラは尋ねる。
ただ純粋な疑問を、アウルにぶつけた。
アウルはげっと目を剥き、慌てて少女を見遣った。
少女はどうかした?といった感じで首を傾げる。
その反応にアウルは安堵の息をもらし、ぎっとステラを睨んだ。
 
「お前は余計なこと言わなくていいんだよ!」
「なんで……余計なの?」
「……う、うるさいっ!とにかく、ボクは忙しいんだからどっか行けよっ」
「……自分が呼びとめたのに………」
「いいから、行け!」
 
吠えるように言われ、ステラはわけのわからぬまま追いやられた。
とことこと町中に向かって足を進ませると、しばらく行ったところでぴたりと止まる。
 
「そういえば………ヨセフさん、知らない?」
「知らねぇよっ!」
「………」
 
アウルは、何を怒っているんだろうか。
あと、顔が赤い気がするが、熱でもあるのだろうか。
 
「………変なの」
 
ぽつりと呟き、ステラは早くヨセフを見つけようと、駆け足で町中に向かっていった。
 
 
 
「……ヨセフさん、どこかな………」
 
あちらこちらにきょろきょろと目をやりながら歩くステラは、目線に合わせて蛇行していた。
ふらふらとした足取りのステラを、すれ違う人々は上手い具合によけてくれる。
しかし、相手の方も前を見ていなかったらどうなるか。
きょろきょろとしていたらどうなるか。
 
必然的に衝突して、しまった。
 
「……っ」
 
自分より大きな体にぶつかった反動で、ステラはひっくり返りそうになる。
しかし、相手の反射神経が優れていたのか、腕を掴まれ、それはとどめられた。
 
「わ、ご、ごめんっ!」
 
驚きの含まれた謝罪の声に、ステラは一度目を瞬き顔を上げる。
目の前で心配そうに瞳を揺らすのは、見たこともない程立派な衣装を纏った少年だった。
少年は、済まなそうに頭を下げてくる。
 
「本当に、ごめん。ちょっと人を探してて、前を見てなかったんだ………大丈夫?痛いところとか、ない?」
「………うん……大丈夫。わたしの方こそ……ごめんなさい………」
 
ぺこっとステラが頭を下げると、少年は安心したように笑った。
ステラはぼぅっとその顔を見上げていたが、ふと少年の服の裾をつまんだ。
 
「あなた……どこの人?すごく綺麗な服………」
 
赤を貴重にした絹の衣装。動きにくくならない程度につけられた金や宝石の装飾品。
どう見ても、この町の人間ではいし、身分も高そうだ。
 
「え、あ、俺は………」
 
くりっとした瞳で見上げてくるステラに、少年はなぜか照れたように頬を染めた。ターバンを巻いた頭に手をやる。
 
「お、俺は仲間と一緒に異国から来たんだ」
「異国の人?他の人はどこ?どうしてここに来たの?何かあるの?」
「え、えっと…………」
 
矢継ぎ早に質問を繰り出すステラに、少年は口篭もった。
どんどん近づいてくるステラの顔も、その原因の一つではある。
かぁっと顔を赤くする少年に、ステラは目を瞬いた。
そう言えば、アウルもこんな感じに赤くなっていた気がする。
 
「……あなたも、熱があるの?」
「も……?あ、いや……別に熱は、ないけど」
 
どうしてそんなことを聞かれたかよくわからなかった少年は、曖昧に微笑んだ。
ステラは目をしばたかせ
 
「そう、なら……いいの………」
 
とだけ言った。
少年は首を傾げ、そしてあっと声を上げる。
 
「君、俺と同じような格好をした二人を見なかった?仏頂面な奴とそいつに怒鳴っている奴」
 
とても抽象的だが、少年は連れのことを的確にあらわした。
ステラは少し考えると、ふるふると首を振る。
 
「ううん……見てない」
「そっか………」
 
はぁ、と少年は息をついた。
 
「あいつらどこに行ったんだろう………」
「……あなた、迷子?」
 
首を傾げてステラが尋ねると、少年はぎょっとする。
そして思いきり頭を振った。
 
「ち、違うよっ!」
「でも仲間の人と、はぐれたんでしょう…………?」
「そ、そうだけど………」
「あなたが、一人で、はぐれたんでしょう?」
「…………」
 
重ねて言われ、少年は唇を引き結んだ。
そのまま黙ってしまう。
 
「あれ…………どうしたの?お腹、痛いの?」
 
少しだけ、心配そうにステラは瞳を揺らがせた。
そんなステラに、少年は目を瞬き、ほんのり頬を染める。そして、はにかむように笑った。
 
「大丈夫……ありがとう。そうだ、もう一つだけ聞いてもいいかな?」
「うん………?」
「この町のどこかに、いるはずなんだけど………救い主を、知ってる?」
「え………」
 
ステラは、目を大きくした。
 
救い主。
それは、今は馬小屋で眠っている幼子のことを指しているのだろう。
 
どうして、この少年は幼子のことを知っているのだろうか。
どうして、この少年は幼子のことを探しているのだろうか。
 
ステラは、少年を訝しんだ。
警戒をあらわに、少年から離れる。
 
唐突に纏う気を変えたステラに、少年は目を瞬かせた。
 
「え、どうかした………?」
「………」
 
無垢なさまで首を傾げる少年。それでも、ステラは警戒心を取り払わなかった。
万が一幼子に危険を及ぼそうとする者だったら、何としても追い払わなくてはいけない。
 
ステラは、そう決意したところで、はっとした。
先程の、馬小屋でのマリアの言葉を思い出す。
 
――――この子はまだ誰かを待っているのかもしれませんわね。
 
自分に会いに来てくれる人を、幼子は待っているのかもしれない。
 
そうマリアは言っていた。
もしかしたら、この少年が、そうなのか。
 
ステラはそう思ったが、軽々しく決定付けることはできない。
そして見極めるためにも、少年の瞳を見据え、暗いものがないか探した。
 
少年の瞳。
それは真っ直ぐで、澄んだ瞳。
一点の曇りのない瞳。
 
ただ、今は少しだけ不安気なものはあった。
それは多分、ステラがずっと黙って見ているからだろう。
 
「………」
 
ステラは、一度少年から目を外し、そして次に向けた時は、淡い微笑を携えていた。
少年の手を、そっと取る。
 
「行こう………」
「え………!」
 
瞠目する少年に、ステラは口元を緩めた。
 

「赤ちゃんが……待ってる………」
 

そして、羊飼いステラの導きにより、少年―三人の博士の一人、シンは救い主の眠る馬小屋へと、辿りついた――――
 

第六幕・終了
 
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第六幕