神の使いガブリエルが、お付きの天使と共にマリアの元をを訪れた次の日。
 
ある人を探すため外に出ていたマリアは、少し離れた所に探していた背中を見つけた。
ぱぁっと笑顔になり、駆け出す。
 
「ヨセフさま」
 
鈴の音のような声で紡ぐのは未来の夫の名。許嫁であるダビデ家のヨセフである。
響いた声にヨセフは足を止め、振り返った。
 
「マリア」
 
優しい微笑み。
元々人当たりの良い笑みを浮かべるヨセフだが、許嫁の少女の前だと格段に表情が和らぐ。
 
息を弾ませ駆けて来るマリアに、ヨセフの心は踊った。
 
あぁ、早く自分だけのものにしてしまいたい………
 
ヨセフはマリアが愛しくて仕方がなかった。それゆえに、早く許嫁ではなく、夫婦という間柄になってしまいたかった。
しかし、なにぶん表では“正しい人”として評判が立っているため、そう安々と未だ少女であるマリアを娶ることができないでいた。
 
ヨセフは内心ため息をつく。
 

ほんとに最悪だ………何が“正しい人”だよ。というか“正しい人”ってよく意味わかんないし………そんな評判より僕はマリアが大切なんだ………
 

そうどこか遠くに想いを馳せていたヨセフの目の前に、駆けて来たマリアが立った。ヨセフの苦渋にも似た表情に、小首を傾げている。
 
「ヨセフさま?どうかされましたか?」
「……ううん、なんでもないよ」
 
本当になんでもなかったかのように笑うヨセフに、無垢なマリアは安心したように笑った。
その笑顔に笑い返し、ヨセフはあ、と声を上げる。
 
「そういえば、マリア。僕に何か用事があったの?」
「あ、はい。ヨセフさまに、とても良いことをお教えしたいと思いまして」
「え、何?」
 
興味あり気に目を瞬かせるヨセフに、マリアはにこりと微笑んだ。
そして、一言で告げる。
 
「私、子供を授かりました」
 
そう、あまりにもマリアが普通に言うので、ヨセフもへぇそうなんだ、と普通に頷きかけ、止まった。
笑顔のまま、首を傾げる。
 
「………子供を、授かった?」
 
ゆっくりと反復するヨセフに、マリアは思いきり頷く。
 
「はい、そうですわ」
 
満面の笑顔。嬉しくて仕方がないといった顔だ。
ヨセフは混乱する頭の中で、必死に言葉を探していた。
 
「マ、マリア……それって………」
「まぁ、いけませんわ。私、お家の用事がまだ済んでいませんでした」
「え?」
「ではヨセフさま。失礼いたしますわ」
 
ぺこりと頭を下げ、マリアは踵を返す。
 
「え、ちょ……まっ………!」
 
慌ててヨセフが呼びとめようとしたが、マリアは家に戻っていってしまった。
後に残されたのは、呆然と、行き場のない手を伸ばしたヨセフだけだった。
 

その晩。
神の使いガブリエルはお付きの天使と共に再びナザレの町にやってきていた。
 
目的は、昨晩聖霊によりマリアの体に宿った、後の救い主の父となる者に会うこと。
 
「昨日は母親と面談で今日は父親かー………」
 
面倒くさい。
言葉に出さないまでも、ひしひしとそう感じられる天使の口ぶりにガブリエルは眉をひそませる。
 
「お前、本当に天使か?嫌ならついて来なければいいじゃないか」
「何を言ってるんだ。俺の大切なガブリエルを一人で人間の世界に来させられるわけないだろう」
「誰がお前のだっ!しかもまた呼び捨てかっ、私はお前の上司だぞ!?」
「そんな堅いこと言うなよ、俺達の仲じゃないか」
「どんな仲だっ」
 
吠えるガブリエルを無視して、天使はというか、と腕を組んだ。
 
「ヨセフに会ってどうするんだ?ガブリエル」
「え、そりゃヨセフにも説明してやるんだよ。マリアに宿った子供のことを」
「……あー……あの娘、きっと子供ができたことしか言ってなさそうだもんな………」
 
なぜできたかは言ってなさそうだ。
 
昨晩会った少女を思い浮かべ、天使は薄ら笑いを浮かべた。ガブリエルは大きくため息をつく。
 
「あぁ、そうだ。ヨセフは評判の“正しい人”だ。マリアが未婚で身篭ったことで、あらぬことを考えているかもしれない」
「………人間は複雑だな」
 
しみじみと言う天使に、ガブリエルはまったくだと頷いた。
 
 
 
一本の蝋燭の灯りのみが揺らぐ薄暗い部屋。
そこでヨセフは椅子に座りながら、組んだ両手に額を押し付ける形でうつむいていた。
 
深く深く、ため息をつく。
しかし、息を吐き出したところで胸の中でうごめくものが出て行くはずもなく、余計に気が沈んでいった。
そうしているとふいに、蝋燭の火が異様な様で揺らめいた。
その気配を感じ取ったのか、ヨセフがその顔を上げた次の瞬間。
まばゆい光が、部屋に溢れていった。
 
「な………」
 
突然の光に、闇夜に馴れていたヨセフの目は、ほんの一時だが見えなくなる。
光が収まり、徐々に元に視覚が戻ってきたヨセフの瞳が写したものは、二人の天使の姿だった。
 
「て、天使………?」
 
呆然とするヨセフに、二人の天使のうちの一人――ガブリエルは安心させるように笑った。
 
「ダビデの子ヨセフ、安心しろ。私は神の使いでガブリエル。こいつは………」
「恋び………」
「ただのお付きの者だ」
 
天使の言葉をしっかり遮り、ガブリエルは笑顔を貼りつけたまま言う。その心にはマリアの時の用にはならないという堅い誓いがあった。
背後で天使がぶーぶーと抗議の声を上げているが、それもきっぱり無視する。
 
「な、なんで僕のところに天使が………」
 
訝りと恐れで、ヨセフは後ずさった。
ガブリエルはそんなヨセフに穏やかな表情で歩み寄る。
 
「私達はお前に説明にきたんだ」
「せ、説明……?」
「そうだ。お前の許嫁、マリアに宿った子供についてな」
 
ガブリエルがそう言った瞬間、ヨセフの顔が強張った。その反応に、ガブリエルと天使は揃ってため息をつく。
 
やっぱり聞いてないのか…………
 
ガブリエルはもう一度息をつき、ヨセフの肩に手を置いた。
 
「ヨセフ、マリアに子が宿ったのは、聖霊の力によるものなんだ」
「聖霊………?」
 
目をしばたかせるヨセフに、ガブリエルは頷いて見せる。
 
「そう、聖霊だ。マリアは後の世で救い主となる者の母として神に選ばれ、子を孕んだ」
「マリアが……神に………」
 
ヨセフは愕然と、崩れ落ちた。
地に手をつき、細やかに震え出す。
 
「ヨセフ………」
 
神の行に、恐れをなしたのだろうか。
ガブリエルは心配そうにヨセフを覗き込んだ。
 
「ヨ………」
「……殺してやる…………」
「……………え?」
 
ヨセフの、ぽつりとした呟きに、ガブリエルは首を傾げた。
今のは、聞き間違いか。とても危険な言葉を聞いた気がするが、空耳か。
 
そうガブリエルが自らの耳を疑っていると。
ヨセフが勢いよく面を上げた。
 
「マリアを汚した奴を、殺してやる………」
 
瞳に燃えるような憎悪を携え、ヨセフは低い声音で言った。
ガブリエルはぎょっと目を剥く。
 
「お、おいっ!おま………何言って……!」
 
驚愕するガブリエルに冷たく鋭い視線をやり、ヨセフは立ちあがった。
 
「僕のマリアを孕ませた奴を許せるわけないだろう」
「だ、だからそれは神が………」
「神だからって、人の許嫁の純潔を奪っていいわけないじゃないか………」
「じゅ、純潔!?」
 
その言葉の意味をとらえ、ガブリエルはかぁっと赤くなる。
ヨセフは一人、悔しげに眉を歪ませた。
 
「僕だって……ずっと手を出さないでいたのに………マリアを大事にしていたのに……何度婚前交渉に踏み切ろうとしたか………」
 
ぶつぶつと今までの苦労を語るヨセフに、ガブリエルは真っ赤になって言葉を失う。
すると、今まで静観していた天使が白けたように目を細める。
 
「何やってんだか………おい、ガブリエル」
「え、な、なん……?」
 
茹蛸のようになり上手く舌を回せないでいるガブリエルに、天使はやれやれと息をついた。
ガブリエルから視線を外し、据わった目で何事か呟いているヨセフに、目を向けた。
 
「おい、ヨセフ。激しく勘違いしているようだから、教えてやる。別にマリアは純潔を失ったわけじゃない」
「………え?」
 
ヨセフは、訝しげに天使を見遣った。
 
「子供ができたのに……純潔を失っていないって……こと?」
「そうだ。人間のお前には信じられないかもしれないが、神は聖霊の力と共に乙女を身篭らせることもできるんだ」
 
つまり。
神ならば男と交わりを持たずして子供を女の胎内に宿すことができるということだ。
 
「そんな……いくら神でも………」
 
信じられないと眉を寄せるヨセフに、天使はふんと鼻で笑った。
 
「信じる信じないはお前の勝手だ」
 
ただな、と天使は続ける。
 
「お前の許嫁は他の奴に身篭らされて平気で報告できる娘かどうか、よく考えるんだな」
「………!」
 
侮蔑を響かせた天使の言葉に、頭を何か硬い物で殴られたような衝撃を、ヨセフは受けた。
 
天使の言う通りだった。
 
マリアは、そんな娘じゃない。
誰よりも無垢で、誰よりも清くて、そして誰よりも気高い心の持ち主。
そんなマリアが、他の者に純潔を奪われ、平気でいるはずはない。
 
ヨセフは自分を馬鹿だと思った。情けなく思った。恥ずかしくなった。
そうやって打ちひしがれるヨセフに、天使はやれやれと息をつく。
 
「わかったみたいだな」
「……あの、もう一つ聞いていいかな?」
「ん?なんだ」
 
言ってみろと促す天使に、ヨセフは真剣な表情で尋ねた。
 
「……マリアが、母というなら……そのお腹にいる子供の父は………」
 
恐る恐る尋ねてくるヨセフに、天使は一度瞬くと、にっと笑って見せた。
 
「お前に決まってるだろう」
「…………うん」
 
ヨセフはここで初めて、天使たちの前で笑顔を見せた。
はにかむようなその笑顔は、何かが満ち足りているようだった。
それに天使は満足気に頷き、話から外れていたガブリエルに目を向ける。
 
「ガブリエル、なんとかなったぞ」
「え、あ、あぁ………」
 
ガブリエルはしどろもどろしながら頷く。
その反応に、天使は小首を傾げた。
 
「どうした?」
「いや……お前があんまりにもまともなことを言うから……ちょっと驚いた」
「お、惚れなおした?」
「バ、バカ天使!そんなわけないだろうがっ」
 
頬を染めて怒鳴るガブリエルに、天使はくくっと笑いを漏らす。
 
「はいはい。それより、ヨセフに言うことがあるだろう」
「………あぁ」
「じゃ、どうぞ、ガブリエル様」
 
珍しく様付けで呼ばれ、ガブリエルは何だかむっとする。バカ天使に、馬鹿にされているような気がしてならない。
だが、今は大人になることにした。
ヨセフに向き直り、真摯な瞳を向ける。
 
「ヨセフ、お前とマリアの子として産まれ出る子は、大いなる救い主となる」
「救い主?」
「そうだ、聖なる力を持つ者だ。だからお前は大きな心でマリアを娶り、その子を慈しみ育てろ。………誓えるか?」
 

重いガブリエルの言葉に、ヨセフは跪き胸に手を当てた。
 
「………はい、誓います」
 
 
 
そうして翌日、ヨセフはマリアを妻として迎えた。
 

第二幕・終了
 

‐あとがき‐
 
もうめちゃくちゃです。
全然聖書の流れと違う………(当たり前だ)
同じなのは(理由は違うけど)悩めるヨセフに、マリアを妻として迎えろといいに来たガブリエル、という設定だけです。(そこも怪しい)
 
というかヨセフ。
いきなりキレるしバカ天使に諭されるし信仰に(?)目覚めるし………なんかあんまりぱっとしませんでしたね(苦笑)こんなはずでは………。
しかも一幕に比べると、馬鹿話になってなかった気が………ガブと天使の漫才が少なく、予想外にヨセフがまともになってしまったからでしょうか………;
 

さて、次は早くもイエスのご誕生です。マリア、産みます。
早くこれを書かないと羊飼いとか博士が書けないし………ちゃっちゃか産んでもらいます(笑)
 
UP:04.12.22
 
第三幕へ
 
 
 
第二幕